このブログ、書かなくなると一気に更新が止まるので、今のうちに書いておこう作戦。
長くなりそうなので、暇なときに読んでね。
16歳で北米の小さな小さな大学に入学したとき、アマンダっていう友達ができた。
ミシガン出身の中国系アメリカ人。
野心的で、頭もよくて、常に目的地までの最短距離を計算しているような人だった。
医者を目指してるから、(アメリカでは医学部の代わりに医学大学院がある)トップの成績をキープするためには努力を惜しまず、そして課外活動にも積極的に取り組む言わば「優等生」だった。
彼女となぜ友達になったかは思い出せないんだけど、友達をやめた理由は思い出せる。
アマンダは、常に私の前に居なくては気が済まないタイプだった。
勉強にクラブ活動に、友達付き合い、そして恋愛に。
自分の立ち位置を、他の人のそれと常に比較していた。
教授とどれだけ仲良くできるか、 どれだけオシャレな人と友達か、カッコいい彼氏がいるか、クリスマスの予定がどれだけクールか、化学の実験がどれだけ成功したか。
つまり、周りから自分は一歩秀でていると感じることが彼女の幸せだった。
まるで、くるっと私のことを振り返って、「まだそこにいるの?くすっ」と意地悪く見つめるような。
そんなの気にしなければいいじゃんて話だけど、16の私は今よりもっとナイーブで、自分の価値がどんどん貶められる気がした。別に、彼女がわたしの基準のすべてではなかったのに。
自分が認められない価値観を蔑み、あざ笑う彼女に飽き飽きして、半年後の冬休みを境に、私は彼女や彼女の友達とつるむをやめた。
アマンダに夕食や週末の遊びに誘われても、ゴメン忙しいから、と断った。
1年生だった彼女は持ち前の「狡猾さ」を生かして、新年から上級生の寮の1人部屋に越していった。
だから、自然と距離もできて、そしてそのうち誘われなくなった。
大半の学生はキャンパス内の寮生だったから、日々の生活はもちろん食事や週末まで、自然と仲良しグループが出来ていた。小さな小さな大学だからもちろん全員顔見知りで、名前も知ってるけど、どうしてもその中にもグループが出来てしまう。
なんなんだろう、人間ってめんどくさい。いっぱい人がいるところで、何を基準に人を選ぶんだろう。
彼女と遊ばなくなった代わりに、私は誰も選ばなくなった。
他人に見下されるのも、評価されるのも、他人の他人に対する批評を聞くのも、もううんざりだったから。 友達グループだなんて、めんどくさいって思った。
誰かと誘いあって食堂に行くこともなく、誰かと図書館で一緒に勉強する約束もしなくなった。
自分の行きたい時にジムに行き、食べたい時に食べたいものを食べたい場所で食べ、会いたい人と会いたい時に会うようになった。彼氏も彼女もできなかったけど、そのとき初めて色んな人とのセックスの経験もした。他人に振り回されないかわりに、自分も他人を振り回したくないと思った。
若かったなあ、16歳。
その頃の私は、友達ってものがよく分からなくなってた。
友達と遊ぶ約束をして、結局ほぼ毎日顔を合わせていくと結局は精神的にしんどくなると思っていたから。
そんな時、姉妹みたくなった人たちがいた。
妹みたいなミャンマー人のウェイカインと、ウィスコンシン出身のブリトニー。ブリトニーは大麻を売りさばく目つきの怪しいパキスタン人の彼氏と付き合っていた。男の趣味とは裏腹に、ブリトニーは酒も麻薬もセックスも全部やらなかった。わたしはそんな彼女がめちゃくちゃカッコよく見えた。ウェイカインは、もはや家族だった。
彼女たちとは思い出した時に連絡を取るくらい、だけど、それぞれ人生を楽しんでいると思う。
ウェイカインは教師になったし、ブリトニーは研修医になってる。
アマンダは、 さあ、アマンダは今どうしてるかな。興味ないわ。
私にとって「比較されたくない・したくない」っていうのは、どういうことなんだろうかと最近よく考える。
あれ、たしかきしくんてクラスメートは全員ライバルって言ってなかったけ?とユーラシアさんの声が遠くで聞こえますね。うーん、それは単に、そう思わなかったら自分が勉強しないから。テストのスコアとかはぶっちゃけどうでもいいんだけど、テストまでに自分がどう効率よく勉強できたかってのの方が大事なんだよなあ。
人間の行動を比較して楽しむ人たちは、その違いに主観的な優劣をつけるわけで、強いていうなれば目指すべき「高み」があるんだろうな、と思う。私は、その「高み」を勝手に決められたり、押し付けられたりするのが嫌なの。
つまりさ、すごいね/すごいでしょうっていう会話が成立するには、そこに共通の理解としての「すごいもの」があるわけだよね。私はあまのじゃくだから、その「すごいもの」がメインストリーム的であればあるほど拒否反応が出てくる。
自分が認められない価値観を蔑み、あざ笑う彼女に飽き飽きして、半年後の冬休みを境に、私は彼女や彼女の友達とつるむをやめた。
アマンダに夕食や週末の遊びに誘われても、ゴメン忙しいから、と断った。
1年生だった彼女は持ち前の「狡猾さ」を生かして、新年から上級生の寮の1人部屋に越していった。
だから、自然と距離もできて、そしてそのうち誘われなくなった。
大半の学生はキャンパス内の寮生だったから、日々の生活はもちろん食事や週末まで、自然と仲良しグループが出来ていた。小さな小さな大学だからもちろん全員顔見知りで、名前も知ってるけど、どうしてもその中にもグループが出来てしまう。
なんなんだろう、人間ってめんどくさい。いっぱい人がいるところで、何を基準に人を選ぶんだろう。
彼女と遊ばなくなった代わりに、私は誰も選ばなくなった。
他人に見下されるのも、評価されるのも、他人の他人に対する批評を聞くのも、もううんざりだったから。 友達グループだなんて、めんどくさいって思った。
誰かと誘いあって食堂に行くこともなく、誰かと図書館で一緒に勉強する約束もしなくなった。
自分の行きたい時にジムに行き、食べたい時に食べたいものを食べたい場所で食べ、会いたい人と会いたい時に会うようになった。彼氏も彼女もできなかったけど、そのとき初めて色んな人とのセックスの経験もした。他人に振り回されないかわりに、自分も他人を振り回したくないと思った。
若かったなあ、16歳。
その頃の私は、友達ってものがよく分からなくなってた。
友達と遊ぶ約束をして、結局ほぼ毎日顔を合わせていくと結局は精神的にしんどくなると思っていたから。
そんな時、姉妹みたくなった人たちがいた。
妹みたいなミャンマー人のウェイカインと、ウィスコンシン出身のブリトニー。ブリトニーは大麻を売りさばく目つきの怪しいパキスタン人の彼氏と付き合っていた。男の趣味とは裏腹に、ブリトニーは酒も麻薬もセックスも全部やらなかった。わたしはそんな彼女がめちゃくちゃカッコよく見えた。ウェイカインは、もはや家族だった。
彼女たちとは思い出した時に連絡を取るくらい、だけど、それぞれ人生を楽しんでいると思う。
ウェイカインは教師になったし、ブリトニーは研修医になってる。
アマンダは、 さあ、アマンダは今どうしてるかな。興味ないわ。
私にとって「比較されたくない・したくない」っていうのは、どういうことなんだろうかと最近よく考える。
あれ、たしかきしくんてクラスメートは全員ライバルって言ってなかったけ?とユーラシアさんの声が遠くで聞こえますね。うーん、それは単に、そう思わなかったら自分が勉強しないから。テストのスコアとかはぶっちゃけどうでもいいんだけど、テストまでに自分がどう効率よく勉強できたかってのの方が大事なんだよなあ。
人間の行動を比較して楽しむ人たちは、その違いに主観的な優劣をつけるわけで、強いていうなれば目指すべき「高み」があるんだろうな、と思う。私は、その「高み」を勝手に決められたり、押し付けられたりするのが嫌なの。
つまりさ、すごいね/すごいでしょうっていう会話が成立するには、そこに共通の理解としての「すごいもの」があるわけだよね。私はあまのじゃくだから、その「すごいもの」がメインストリーム的であればあるほど拒否反応が出てくる。
プライドとかセルフエスチームの問題と取られるかもしれないけど、あいつはこうだから勝ってるとか負けてるとか、全てを競争に繋げようとする根性ほど醜いものはないなあと感じる。
競い合って勝つって、比較して優劣をつけるって、外見のルッキズムにも通じてるよね。
嫌にシステマチックな競争社会に生きてると、見た目とか年齢てものにも価値と優劣がつけられる。そんなもの、そもそもその人の行動でもなんでもないし、整形以外ではなにも変えられないのに。整った顔や細い身体に若い年齢っていうのが妙に賞賛される社会だからこそ、誰もかれもがおのずとそういう比較のスパイラルにはまったまま動かなくなってしまったんだろうな。
人が努力をして得た称号だとか成果に対しては「すごいね」では無く「おめでとう」だし、見た目・体型や年齢が比較対象としての評価では無く、なにがあろうと肯定されるものとして捉えることが必要と思う。
可愛いとか美人とか頭がいいとか、スペクトラム上でのポジティブな言葉の代わりに、こう自分も相手も肯定的かつ恒常的にエンパワメントできる言葉を使いたいよねっていう。
だんだんライオットガールズぽくなってきたぞ。
そんな感じ。
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